1. 固定残業代とは何か
固定残業代とは、「定額残業代」「みなし残業代」とも呼ばれ、毎月一定額を残業代としてあらかじめ支払う制度です。実際の残業時間に基づく残業代がその金額以内に収まれば、追加の支払いは発生しません。
たとえば、「月30時間分の時間外労働に対する割増賃金として、固定時間外手当5万円を支給する」という定め方がこれにあたります。従業員の残業が30時間以内であれば5万円の支払いで足り、会社にとっては人件費の見通しが立てやすくなるというメリットがあります。
この制度自体は違法ではなく、適法に設計すれば有効な制度です。しかし、最高裁の判例により、固定残業代が有効と認められるための要件は厳格に解されています。要件を満たさない固定残業代は無効となり、後述する「二重払い」の問題が生じます。
2. 固定残業代が無効になるとどうなるか——「二重払い」の恐怖
固定残業代の制度設計に不備があると、裁判所から「この固定残業代は無効」と判断されることがあります。無効になった場合に何が起きるかを正確に理解しておくことが重要です。
無効になった場合の計算の仕組み
固定残業代が無効になると、次のような処理が行われます。
固定残業代が基本給に組み込まれる
これまで「固定残業代」として支払っていた金額は、残業代としての性質が否定され、「基本給の一部」とみなされます。
時間単価が上がる
基本給が増えるため、残業代の計算基礎となる1時間あたりの賃金(時間単価)が上がります。
残業代が再計算される
上がった時間単価をもとに、実際の残業時間に対する残業代が改めて計算し直されます。
二重払いの発生
結果として、「すでに固定残業代として支払った金額」+「新たに計算された残業代の全額」を支払うことになります。これが「二重払い」と呼ばれる状態です。
具体的な数字で見るインパクト
ケース:基本給20万円+固定残業代5万円の場合
固定残業代が無効と判断されると、基本給は25万円とみなされます。月の所定労働時間を160時間とすると、時間単価は次のように変わります。
- 有効だった場合の時間単価:20万円 ÷ 160時間 = 1,250円
- 無効になった場合の時間単価:25万円 ÷ 160時間 = 1,562円
時間単価が約25%上がった上で、すべての残業時間について残業代(時間単価 × 1.25)を支払い直す必要があります。月40時間の残業をしていた従業員であれば、1か月あたりの追加負担は相当な金額になります。
これが2年分、3年分と遡って請求されると(残業代の消滅時効は現行法で3年)、数百万円に達することも珍しくありません。
ポイント:「二重払い」の本当の怖さ
単に「固定残業代を返す」のではありません。基本給が上がった前提で残業代が再計算されるため、経営者が想定する金額をはるかに超える負担になります。しかも、1人の従業員が請求に成功すれば、他の従業員(退職者を含む)も同様の請求を行う可能性があります。
3. 中小企業がよく犯す5つの間違い
当事務所にご相談いただく中で、固定残業代に関して特に多く見られる5つの間違いをご紹介します。これらは、いずれも固定残業代が無効と判断される原因になりえます。
間違い1:基本給と固定残業代が明確に区分されていない
最も多い間違いです。雇用契約書や求人票に「月給25万円(固定残業代含む)」としか書かれていないケースが典型的です。
この記載では、基本給がいくらで、固定残業代がいくらなのかが判別できません。裁判所は、基本給と固定残業代が明確に区分されていることを有効性の大前提としています。この要件を満たさなければ、他の要件を検討するまでもなく無効です。
正しい記載例:
「基本給 200,000円、固定時間外手当 50,000円(月30時間分の時間外労働に対する割増賃金として支給。実際の時間外労働が30時間を超えた場合は、超過分を別途支給する。)」
間違い2:固定残業代を入れたことで労働時間の管理をしていない
固定残業代を導入している企業、特に管理職や一定水準以上の給与を受けている従業員に対して、「固定残業代を払っているのだから、労働時間を管理しなくてもよい」と誤解しているケースが非常に多く見られます。
実際に、管理監督者と同様の取扱いをして労働時間の算定自体をしていない会社が、労働基準監督署から指導を受けるケースが後を絶ちません。
固定残業代と労働時間管理は全く別の問題です。固定残業代を導入していても、会社には従業員の労働時間を把握する義務があります(労働安全衛生法第66条の8の3)。労働時間を管理していなければ、そもそも固定残業代を超える残業が発生しているかどうかも判断できず、間違い3の差額不払いの問題にも直結します。
なお、固定残業代が何時間分の残業に相当するかを明示することも重要ですが、最高裁は、固定残業代の金額から残業時間数を直ちに算定できなくても、それだけで無効にはならない旨を示しています。ただし、透明性の観点からは時間数を明記しておくことが望ましいです。
間違い3:固定残業代を超える残業代を支払っていない
「固定残業代を払っているから、それ以上は払わなくていい」——これは完全な誤解です。
固定残業代は残業代の「上限」ではありません。実際の残業時間に基づいて計算した残業代が固定残業代の金額を超えた場合、その差額を追加で支払う義務があります。
この差額を支払っていないという事実は、固定残業代制度の趣旨に反するものとして、制度全体の有効性にも疑問を投げかける要素になりえます。つまり、差額不払いは単なる未払い残業代の問題にとどまらず、固定残業代そのものが無効と判断されるリスクを高めてしまうのです。
間違い4:従業員への周知・説明が不十分
規程上は適切に固定残業代が定められていても、実際の運用で従業員にきちんと周知・説明されていないケースが少なくありません。具体的には、次のようなパターンがよく見られます。
- 就業規則には規定があるが、労働条件通知書に固定残業代の記載がない
- 労働条件通知書には記載があるが、給与明細上で固定残業代が独立した項目として表示されていない(特に手当型の場合に、手当名だけで残業代であることがわからない)
- 導入時に社労士等の専門家に規程を作成してもらったが、会社自身が制度の趣旨を十分に理解しないまま運用を続けている
- その結果、後から固定残業代に充てる手当の名称が勝手に変わっていたり、手当が増えていたりして、規程と実態が乖離している
これらに共通するのは、「最初に専門家に作ってもらって、そのまま理解しないで使い続けている」という問題です。制度は作って終わりではなく、正しく理解し、正しく運用し続けることが不可欠です。
間違い5:導入後に専門家のチェックを受けていない
固定残業代の制度は、専門性が高い割に、一度導入すると「作りっぱなし」になりやすい制度です。導入時に社労士に依頼して規程を作成し、その後何年も見直しをしていないという会社は非常に多い。
その間に、法改正があったり、給与体系が変わったり、手当の名称や金額が変更されたりして、当初の設計と実態がずれていきます。そして多くの場合、退職した従業員からの請求書が届いてはじめて問題が発覚します。
数百万円の請求を受けてから慌てて対応するよりも、あらかじめ専門家に確認して手当てする方が、はるかにコストを抑えられます。定期的な見直し——たとえば年に一度、就業規則と雇用契約書の固定残業代に関する規定を弁護士に確認してもらうだけでも、大きなリスクの軽減につながります。
正しく制度を運用することは、会社を守るだけでなく、従業員にとっても適正な賃金が支払われる環境を保つことにつながります。労使双方にとって望ましい状態を維持するために、専門家の定期的なチェックをおすすめします。
4. 固定残業代を適法に設計するためのチェックリスト
現在の制度が適法かどうかを確認するためのチェックリストです。一つでも当てはまらない項目があれば、制度の見直しが必要です。
- 基本給と固定残業代の金額が明確に区分されているか
- 固定残業代が何時間分の残業に相当するかが明示されているか(必須ではないが望ましい)
- 上記の内容が雇用契約書・労働条件通知書に記載されているか
- 就業規則(賃金規程)にも同様の規定があるか
- 実際の残業時間を正確に記録・管理しているか(固定残業代の有無にかかわらず必須)
- 固定残業代を超える残業が発生した月には、差額を支払っているか
- 固定残業時間が過大でないか(目安として月45時間が上限ライン)
- 求人票にも固定残業代の金額・時間数を記載しているか
- 給与明細上で固定残業代が独立した項目として表示されているか
- 規程で定めた手当名と、実際に支給されている手当名が一致しているか
- 導入後に制度の見直し・専門家のチェックを受けているか
月45時間の目安について
固定残業時間を月80時間や100時間に設定しているケースが稀に見受けられますが、このような過大な設定は、労働基準法の時間外労働の上限規制(原則月45時間)との関係で、公序良俗に違反するとして無効と判断されるリスクがあります。固定残業時間は、月45時間以内を目安として設定することをおすすめします。
5. すでに導入済みの企業がすべきこと
「うちの固定残業代は大丈夫だろうか」と不安を感じた方は、次の手順で確認と是正を進めてください。
まず確認すること
現在使用している雇用契約書と就業規則(賃金規程)を取り出し、上記のチェックリストに照らし合わせてください。特に、基本給と固定残業代の区分が明確か、時間数が明示されているかの2点が最重要です。
是正の方法
- 就業規則の改定:固定残業代に関する規定を明確にします。ただし、就業規則の変更が従業員にとって不利益にならないよう注意が必要です(労働契約法第9条・第10条)
- 雇用契約書の再締結:既存の従業員との間で、新しい労働条件を明記した雇用契約書を締結し直します。一方的な変更はできないため、従業員の合意を得ることが前提です
- 給与明細の記載方法の見直し:給与明細上でも、基本給と固定残業代が別項目として表示されるようにしてください
「今問題が起きていないから大丈夫」ではありません
固定残業代の問題は、多くの場合、従業員が退職した後に表面化します。在職中は会社との関係を気にして声を上げなかった従業員が、退職をきっかけに弁護士に相談し、未払い残業代の請求を行うというパターンが典型的です。問題が顕在化する前に、今のうちに是正しておくことが最善の対策です。
6. まとめ
この記事のポイントをまとめます。
- 固定残業代は、適法に設計すれば有効な制度です。制度そのものが悪いのではなく、設計の不備が問題を引き起こします
- 設計に不備があると、「二重払い」のリスクを負います。固定残業代が基本給に組み込まれて時間単価が上がり、その上で残業代を再計算されるため、想定をはるかに超える負担が生じます
- 「基本給との明確な区分」「労働時間の管理」「超過分の支払い」「従業員への周知」「定期的な専門家のチェック」——この5つが適正な運用の鍵です
- 退職者から数百万円の請求を受けてから対応するよりも、あらかじめ確認して手当てする方が、はるかにコストを抑えられます。不安がある場合は、雇用契約書と就業規則を弁護士に確認してもらうことをおすすめします
固定残業代の設計に不安はありませんか?
青山法律事務所では、固定残業代を含む賃金制度の設計・見直しについてご相談を承っています。就業規則・雇用契約書のチェックだけでもお気軽にご相談ください。
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